Junk of Japan 別館
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紹 介
--- MTX50R ---
旧ホームページ「Go go go MTX50R」にて製作・紹介
今の高校生達には信じられないだろうが、私のオートバイの師匠は高校の担任だった。
私は高校受験に失敗し、都心に近い某男子私立高校に通っていた。しかし、この高校への
進学が、私の人生を大きく変化させたと思う。もちろん、いろんな意味を含めてだが、この高校で
出会った恩師が、私の現在を作ったようなものだ。高校時代の恩師は、私を初めて見た時に
変わった奴(変人)だと思っていたと、後に聞いた。しかし、それは私の言葉であり、高校の恩師
は、私以上に変な人、いや・・・変わった人だったと記憶している。
高校入学した翌日、私のクラスでは自己紹介をする事になった。中学時代から変人扱い
されていた自分なので、高校でも特に意識する事なく、普段どおりに自己紹介をした。
「はじめまして、特技は中途半端なベトナム語です。趣味は四輪駆動車が好きです。」
この時、恩師は私にこういった。「お前が車が好きでも、ハフリンガーは知らないだろ?」
だけど私は、この時鼻で笑って「あぁ・・・オーストリアのミュールみたいなやつですね。」
そう答えたのが、すべての始まりだったような気がした。この時担任は悔しそうだった。
これが私と恩師の出会いであり、後に私の人生を大きく左右する出会いであった。

高校2年の夏、突然担任が私にこういった。「おまえ、隠れて原付免許取りに行っただろ?」
私の高校でも原付免許を取るのは禁止されており、それでも私はこっそり休みを利用して
原付免許を所得した。それがサッカー部の友人から、なぜか担任に情報がリークしており
原付免許を所得したのがばれていた。私は御咎めがあるのだと思っていたが、恩師の口
からでた言葉は以外な事だった。「原付取ったなら、オフロードバイクやるから直してみろ。」
そして譲り受けたのがMTX50Rだった。今思うと変な話だが、それなりに理由が存在した。

恩師から譲り受けたMTX50Rは不動の状態で、オートバイに興味の無い私は正直
すげーゴミをもらったと後悔していた。しかも、高校の担任からオートバイを譲り受ける
事になった経緯を両親に話すと、父も母も???といった顔で困惑していた(笑)
恩師からMTXを譲り受ける時「お前、これを修理しろ、車の知識があっても修理は
別の知識だ。」そう言われたのを覚えている。つまり、これは恩師からの挑戦だと
私は思ったが、卒業してから10年後にとんでもない理由を聞かされて爆笑した。
私はしばらくMTX50Rの修理に夢中になっていた。何故エンジンがかからないのか。
私はこの時はじめてオートバイに触り、修理に関するイロハを自分で学んだと思う。
もちろん、はじめから修理が上手くいくわけではなく、最終的に親父の力を借りて
やっとエンジンがかかるようになるが、この結果を聞いて恩師は私に負けを宣告した。
つまり・・・入学式翌日の借りを返されたわけであり、私はこの時やられたと思った(笑)
でも、今思うと恩師は私と同じ目線で接してくれたのであり、今でも感謝している。

高校を卒業して、私は大学に進学し千葉で一人暮らしを始めた。高校時代、MTXは修理
してしばらく放っておいたが、8キロ先のキャンパスに通う為にMTXを引っ張りだした。
しばらくキャンパスに通っていると、MTXに不満を感じるようになり、気がついたらいろいろ
改造をするようになっていた。私が住んでいたキャンパスはニュータウンにあるとは言え
周りは畑だらけで、夜道は暗くて見えにくいので、ライトをモンキーBajaの物に交換した。

大学2年になると、キャンパスが東京になり、私は祖母の家から大学に通うようになった。
千葉とは違い、東京の都心ではゴー・ストップが多かった為、加速性能に不満を持つように
なった。それでいろいろいじったと思う、チャンバーを移植したり、サイレンサーを変えたり
エンジンを80ccにしたり・・・この時の私は溶接も何もできなかったが、いろいろ知恵を出して
自分で出来る範囲で改造していたと思う。この時からいろんな知識も身についたと思う。
人とは違う個性を出そうとして、81年のXRのヘッドライトを移植したが、友人にはヘッドライトが
上下逆さまについていると、よく笑われた。私の年齢でXR200Rを知っている人間は皆無で
やはり大学のバイク仲間からも変人扱いされていた。私もMTXも異単車(異端者)扱いだった。

XLR250R(ノーマルだけど)と信号ダッシュで勝利する原付に、友人は不思議がっていたが
それなりにチューンしていた。エンジンはNSR80を移植して、CR80エアクリーナーBOXとPE
キャブを装着。ビッグリードバルブに、CRM80社外チャンバー(ドリームトキ)を移植して
仕上げにキタコのアウターローターキットを移植していた。ここまでやればノーマルの250(4st)
なら、勝負してそこそろ勝負しても勝てたが、前後ドラムはさすがに怖かった。

勝負に勝つ為に、命を捧げる勇気は無いので、フロントブレーキをディスクに改造した。
もちろん、この時は機械を操作する事は出来なかったので、親父に頼んで作ってもらったが
これが後に、RA125を作るきっかけにもなったと思う。この時の私に労働者意識は無かったが
いつか工場で自分で部品を作ってみたいと思ったのも、この時だったと思う。

MTX50Rはいろいろ改造したが、最後はだんだんノーマルに戻ってきた気がする。改造とは
違うバイクの部品を着ける事だとばかり思っていたが、ノーマルの部品が手に入り、元に
戻して装着してみると乗りやすい事に気がついた。単に部品を付けるだけでは意味がなく
総合的なバランスだと感じるようになったのも、MTXの時だったと思う。

街中でどんなに速くくても、人とは違う個性を出そうとしても、とある出来事をキッカケに
私の改造に対する意識が変化していったのもこの時だと思う。私はある人との出会いで
「るーきーず」という、サンデーレースに出場する事になり、決定的な事を体験した。

レースに出場したMTX50Rははっきり言って、邪魔な存在だった。自分では最強のバイク
だと思っていたが、すべてが仇になった。腕もなければ知識も無い。すべてこの時実感
したと思う。初めてのレースに出場して、たった3周しか出来ず悔しい思いをした。

井戸の中の蛙が大海を知った、だから私は次こそ・・・そう思ったが、MTXの最後は
あっけなかった。レースの2週間後にエンジンが焼きつき、修理後にはフレームの
腐っていた部分にクラックが入り、溶接で修理しようとお願いしたら手遅れと言われた。
フレームの内部がかなり腐っており、貫通ドライバーで叩いたら簡単に穴が開いて
しまった。すべての情熱が吹き飛んだ気がしたが・・・でも、これがすべての始まり
だったと思う。この後、私はRA125を手に入れて、後にトイぼねんと出会ったのだから。
10年後の夏、私は恩師と再会して一緒に酒を飲んだ。そして私は恩師に聞いた。
「先生、なんで高校生の私に原付なんて与えたんですか」
私が聞いた時、恩師は笑いながら私にこういった。
「お前を非行に走らさない為だよ」
先生の言葉の意味がわからなかった。当時の私は別にグレてなんていなかった。
その事を話すと、恩師は笑いながら言葉を付け足した。
「お前はあの時、時代を間違えた理想主義者に見えて面白かった。変な思想に
走る前に、オートバイの修理に夢中になれば、普通の青年になるだろうと思った
からさ。お前は面白かったよ。俺達の時代に生まれたら、間違いなく流されていたな。」
多分恩師は私がベトナム語や高校生にしては左社会の知識が多く、ちょっと雲行きの
怪しい学生だと思ったらしい。でもそれは勘違いで、私はグエンパパにベトナムの話を
聞いて、中途半間にベトナム語や社会主義の歴史を知っていた、ただそれだけだった。
だから私は恩師にこういった。
「先生は見る目が無いな・・・」
恩師は笑いながらこういった
「見る目が無ければ今日は無いんだよ」
私に今日を与えてくれた恩師と、MTXとの日々を私は忘れないと思う。
いつまでも・・・
Junk of Japan